茨城県北茨城市
北茨城市歴史民俗資料館
戦時中の貴重で珍しい展示があったので
紹介したいと思います。
風船爆弾
資材不足によりゴムでは無く
和紙を使って製作された風船爆弾
その放球台跡が北茨城市に残ってます。
アドバルーンのような風船爆弾
焼夷弾と重しが吊るされていて
高度が下がって来ると重しを少しづつ落としていく
仕組みになってます。
この風船爆弾をジェット気流に乗せて
アメリカ本土まで飛ばして爆撃しようとしましたが
9300発飛ばされアメリカ本土に到達したのは
1000発程度で被害は一件のみ確認された兵器です。
本土決戦に向けて日本沿岸に配備された
特攻兵器「震洋」
第二次世界大戦末期
大日本帝国は一億総特攻を掲げて
一般市民も軍人として戦う事を強要した時代があった。
当時の世界は日本は危険で狂気な国家に見えただろう。
コメント
コメント一覧 (40)
名前を聞いただけで入りたくなります。
今ちょうど中学の歴史の授業が第一次世界大戦~第二次世界大戦のところなので、
私も再度調べながら教えています。
今週は期末テスト期間なので忙しいです。
清多
がしました
歴史民俗資料館は興味深い物が沢山ありますね
風船爆弾、以前テレビを見てた時
作ってた様子を放映していました
これでアメリカまで・・・?って思いました
さほど効果がなかったみたいですね
清多
がしました
風船爆弾、知らなかったのでびっくりです
清多
がしました
それをどの国も覚えてますね。これらは末期ですね、今もそうだけど兵士の死は
数に入らないんですよね。
清多
がしました
風船爆弾が和紙だったとは・・・
第二次世界大戦は、日本が引くに引けなくなってしまった結果の悲劇だと思います。
戦争は、誰も幸せにすることがないとわかっているのにどうしてまた戦い始めるのでしょう。
ロシアが日本の二の舞にならなければいいのですが・・・
清多
がしました
うちの近所にも 横浜歴史博物館ってのがありますが
まだ 行った事がありません。
戦後 進駐軍主導の教育が行われたので 間違った戦争の歴史が
結構多いので そろそろ 真実の歴史を教育して欲しいもんです。
例えば B-29 爆撃機にいは手も足も出ず 高射砲も届かず
本土爆撃は したい放題だったってな知識でしたが 実際はB-29のアメリカ軍被害は
かなり大きく 戦死者は 神風特攻隊員よりも多かったそうです。
しかし 特攻隊を考えた将校はとんでもない奴です!
ナイスでポッチン♪
清多
がしました
こんなんなんだ~
よく分かりました。
日本軍はよく考えましたね。
潜水艦に戦闘機も搭載したと言われています。
清多
がしました
ロシアもそうだけど、指導者の能力が
問われますねぇ。
可哀想なのは、国民です…
清多
がしました
第2次大戦は見事に証明していますよね。
なのに国連に異常なまでに期待する日本人。
もう国連なんて頼りにする必要は
全く無いのですがねぇ。
清多
がしました
歴史の授業だったか、
大人になってから目にした何かしらの文献だったか、
定かではないけれど、見聞きしたことはあります。
でも、仕組みまでは知らなかったです。
なんだかな~・・・・・
愚かだな~・・・・・
改めて思います。
清多
がしました
こんな風だったのですね。
清多
がしました
笑えないけど必死だったんですね。
犠牲⇒平和 犠牲⇒平和の連続ですね。
清多
がしました
風船爆弾ですか?
これは初めて聞きました。
昔は色々な工夫をしていたんですね。
でも戦争のない平和な世界に
なってほしいです。
清多
がしました
風船爆弾とか焼夷弾とか 言葉は聞いたことがありますが
実物や模型など見たことなかったです
戦争を知らない人たちが増えてきて
また まちがった指導にならないように
ひとりひとり 世の中を見守ってほしいですね
清多
がしました
食べるものも少なくて市民は大変でしたね
あのおもちゃの様な爆弾がアメリカまで到達していたなんて・・・
今は日本は平和ですがアメリカと戦争をしたなんて若い人は
知らないので葉・・・
清多
がしました
清多
がしました
恐ろしい・・・
風船爆弾 ベニヤ板の特攻船・・・
ひさしブリに メニしたなぁ
清多
がしました
戦争に勝てるならゴムでなくても和紙で大丈夫だったのですね。
なんだか怖い代物です。
戦争が終わって怖い忘れ形見が残ってしまいましたね。
民族資料館も保存には困ったものでしたね
清多
がしました
国連の安保理事会において
非常任理事国に選ばれたことを
いまだに大喜びしている政治家の姿に
情けない気持ちになりました。
清多
がしました
こんなショボい爆弾でも、ハワイから飛ばせば西海岸を恐怖のどん底に落としたことでしょう。
以前も書きましたが、パールハーバーを攻撃だけして占領しなかったのは大失態だったと思います。ハワイが占領出来れば、米本土に攻撃を仕掛けるのも容易でしたし、兵站が伸び切ってしまうこともなかったでしょう。
清多
がしました